記事更新日 : 2017.3.30

心地庵

心地庵 坂野義樹さん・勢子さん

自分らしい豊かさを味わえる暮らしがお店に

125年以上にもなる武家屋敷を、仲間たちとリノベーションしてカフェ「心地庵」を開業したのは2012年の3月の事だった。オーナーは坂野義樹さん、勢子さん夫婦。きっかけは大家さんの何気ないひとこと、「お店でも開いてみたら?」。勢いで「カモコレ」の一つのコンテンツ「古民家をカフェに変身させた~い!」という企画で募集すると、意外にも沢山の人達が集まってくれた。一緒になってカフェを作る過程も楽しんだという。


薪窯づくりとピザ。

ピザを焼く薪窯は、義樹さんの手作りだ。
アウトドアの趣味が高じて、作り始めた薪窯は現在使用中のもので
2作目。毎日オープンの1時間前から薪をくべ、お客様をお迎えする準備をする。この儀式のような火を入れる瞬間が堪らなくいい。暑い日も寒い日も、薪窯に命が吹き込まれるような感覚が好きだという。ピザもオリジナルにこだわる。せっかく野菜の美味しい地域、しかも有機栽培のものが驚くほど普通に流通している。季節や天候によって収穫される種類も変わるので、季節感のあるピザが味わえる。調達する薪も知り合いの植木屋さんが剪定したもの。自然の資源を循環させながら無駄の無いように心がけている。

美容の世界とワンダーフォーゲル。

 勢子さんは、「だんじり祭り」で有名な大阪府岸和田市に生まれた生粋の泉州っ子。家業の理容店を営む3姉妹の長女として育った。野生児と呼ばれるぐらい活発な子供時代。妹たちを引き連れ近所を探検して遊んだ。大学は京都の教育大で特修美術を選んだ。絵が好きだったこともあるが、親元を一度は離れて生活したかった。自主サークルに入り本格的なアウトドアを経験。北は知床、礼文島から、南は西表島など、キャンプ生活をしながら過ごす。今まで知らなかった日本の自然に触れたのが楽しかったという。教育学部だったが、教員になるつもりはなく、心のどこかで家業をつぐものだと感じていた。卒業後は改めて専門学校で美容師の免許をとり、梅田や心斎橋という流行最先端の場所で美容の腕を高めた。バブル全盛、おしゃれにお金をかける時代だった。地元岸和田に帰り、開業したのは、大学を卒業して8年目のことだった。


ローリングストーンライフ

 義樹さんも大阪市都島区で生まれた。実家は駄菓子なども扱う商店、昔ながらの風情が残る下町で成長した。夏休み、母親の実家で虫捕りや川遊びに興じるのが好きだった。田の香りがすると何故かホっと落ち着くのも、この頃の影響かもと笑う。学生時代は、地元の芸術大学で映像を学ぶ。関西はもちろん東京や岐阜、広島と全国から映画好きが集まった。自主制作映画を作ったりしながら、交友を深めたという。卒業後は東京のテレビ番組制作会社に就職。1人暮らしをしながら、ドキュメンタリー番組など、制作補助のためにかけずりまわる生活。面白かったが厳しい上下関係や、体調不良が原因で、大阪に舞い戻る。その後、アルバイトや、輸入雑貨の会社などを経て、新聞社の広告営業の職を得る。これが面白かった。紙面スペースを売るのではなく、相手の立場になって企画立案し、どうやってお客様を増やすのか?多種な業種のクライアントの要望に応える。この時の経験が今も大きく役立っていると感じている。


出会いからネイチャーライフをもとめて

 義樹さんが広告営業で訪れた美容室のオーナーから「ええ子がおるで。」と紹介されたのが勢子さんだった。「見合いみたいなもんやったよ。」と笑うが、出会って半年で結婚。言葉には出さないが、お互いに魅力を感じて惹かれ合ったのだろう。きさくで話しやすかったという勢子さんの明るい性格も大きい要因だったのかもしれない。

 結婚後のあるとき、二人は夏休みを利用して東京へドライブ。途中エアコンの壊れた車中では、窓を開けると排気ガス、閉めると熱地獄。いっぽう、途中で立ち寄った信州の持つ、雰囲気や空気感が東京と対照的に魅力を感じた。いつかこういう豊かな自然の中で暮らしたい。そういう思いが募っていった。しかし、地元に貢献できなければ受け入れてもらえない。どうやって糧をようか?もんもんとした日が続く。

「よっちゃんが働ける所をさがして!私はどこでもついていくから。」その言葉を聞いた義樹さんは堰を切ったように行動を始める。そんなとき、インターネットで有機野菜を全国販売する業者の求人情報を見つけた。販売企画、これは自分にできるかも。場所は南国・鹿児島。知り合いやツテも全くなかったが、思い切って来鹿。あとは導かれるように決まっていった。

蒲生へ!

 就職した会社が用意してくれた住居が、蒲生にあった古民家。しかも初代蒲生町町長さんの家だった。これが現在の「心地庵」に変貌するとはその当時は予想もつかなかった。蒲生から鹿児島市内の会社へ通いながら、徐々に蒲生暮らしを満喫していった。美しい里山に生きる人々、地域で活躍する有機野菜の生産者達、、、。もっと蒲生に関わって、暮らし続けたいという思いが募っていく。会社との往復だけでは物足りなくなった。せっかく蒲生にある宝の山々、これを自分なりに活かしたいなぁと思っていたころ、たまたま訪れた大家さんとの世間話しがきっかけで、開業することを決意。


試行錯誤しながら店をオープンして5年。徐々に認知度が上がってきたが、飲食店での経験が無かったので、まだまだ自信もないという。生活していくだけで精いっぱい。けど毎日が充実して楽しい。手間暇かけても自然なもの、ホっとできる空間づくりをこころがけているという。店を訪れるとまさに心地庵ワールド、彼らがこれまでたどってきた道が少しも無駄ではなかったことが、明らかだ。

蒲生に住みたい人へ。

 「せっかく蒲生に住むなら町の歴史を大切にする暮らしをして欲しい。」と勢子さんは語る。以前から、蒲生の資源は古い武家屋敷が集積する街並にこそあるというのが、坂野夫婦の持論だ。それが現在、古い住宅が活用されることなく、どんどん壊されて行っている現状が残念でならないと感じている。「小さく輝く街。」という旧蒲生町時代のキャッチフレーズが気に入っている。「大きさや必要以上の豊かさを追い求める都会的な価値観ではなく、自分らしい豊かさを味わえる暮らしを求めていけるのが蒲生なのかな?」勢子さんは感じている。


 聞いているだけでも二人の経緯はジェットコースターのような人生だが不安は無かった?との問いに「どこにいってもなんとかなるし、なるようにしかならん。」と義樹さんはいう。これは大阪の下町で、多様性あふれる人間達にまみれて育った素地があるからこそ、抱ける確信なんだろう。おせっかいな大阪人気質の中で、かかわり合い、助け合っていけば、どうにかなってきた現実を見てきたからこその感覚ではないだろうか。


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