記事更新日 : 2017.3.26

小倉正裕さん

蒲生和紙工房 小倉正裕さん

蒲生和紙の伝統を受け渡していくために

素朴な風合いと強い腰で、昔から障子紙として重宝されてきた蒲生和紙。その手すきの技術をただ一人受け継ぎ、伝統を繋いで行こうとしている小倉正裕さん。紙の原料となる梶の皮が外壁一面に干されている小倉さんの工房を訪ねた。

手すきの里であった蒲生町

 蒲生町は手すき和紙の里でもあった。「この土地は元来が痩地なのである。山林がぜんたいの70%を占め、畑が三百町歩、水田はわずか百十町九反半にすぎなかったため、蒲生氏族は紙すきなどをして自活せざるをえず」と司馬遼太郎が「街道をゆく」に記したように、蒲生麓の武士は副業として和紙づくりをやっていた。全盛期には約300人の和紙職人がいたという。

 その手すきの技術を一人守り続け、最後の紙漉き職人と呼ばれたのが小倉さんの大叔父(祖父の兄)故・野村正二さんだった。鹿児島市に住んでいた子供の頃、蒲生町に帰ってくるたびに叔父さんの工房に遊びに行っていた。当時ふすま工場をやっていた祖父も昔は紙をすいていたという。

 「子供の頃から障子や襖など、日本の伝統工芸的なものが好きでした。叔父さんたちの仕事ぶり、姿に惹かれたんでしょうね」。野村正二さん引退の噂を聞いた時、この子供の頃の思いがよみがえる。「叔父さんの後を継ぎたい」。祖父からは厳しい仕事だと反対されたが、決心は変わらなかった。幸い正二さんは小倉さんの思いを優しく受け止め、弟子入りを認めてくれた。引退するまでの3年間、アルバイトで生活費を稼ぎながら正二さんのもとに通い続けた。

様々な人に助けられて

 修行を終え蒲生町上久徳の現在地に工房を開いたのは2001年12月、紙漉きの道具などはその年の6月に引退した正二さんが譲ってくれた。それから15年あまり、ここまでいろんな人に助けられた。

 工房を開いて間もない頃、当時の蒲生町長を訪ねたことがあった。話のなかで一日何枚の紙を漉いているか聞かれ300~400枚ぐらいだと答えると、「自分も紙をすいていた。自分は700枚はすいた。もっと頑張れ」と激励してくれた。また、田んぼ仕事の帰りにいつも工房をのぞいて声をかけてくれる人がいる。聞くとその人も紙をすいていたという。毎年、欠かさず原料の梶の木をつくってくれている人もいる。

 「つくづく自分は恵まれていると思います。正二おじさんが全ての技術を教えてくれた。そして、いろんな人が応援してくれている」。手すき和紙の伝統は土地の記憶となり現代まで続いてきた。それを繋いでいって欲しいという蒲生の人たちの思いに導かれてここまできた。

手すきの道具を作る職人さんも減ってきた

手すき和紙は刈り取った梶の木を蒸して皮をはいで、その皮を乾燥させた後、釜で煮てあく抜きをして叩いて、ほぐしてと、いくつもの工程を経て作られる。

中でも紙漉き作業として映像が浮かぶのは、漉き船と呼ばれる大きな四角い桶の中の水に、梶の繊維とトロロアオイから取り出した溶剤を溶かしこみ、御簾(みす)ですくい上げる工程だろう。

小倉さんの現在の気がかりは、この手漉きに欠かせない御簾を作る職人がどんどん減っていること。日本中で今、10人しかいないという。新しいものを注文しても2年は待たなければならない。

「小さな傷は自分で修理するなど、大事に使っているけどいつまで続くかわからない」。伝統の技術はそこで使われる一つ一つの道具を作る多くの職人によって支えられている。その職人がいなくなると技術も消えてしまう。なんとか後継者が育つことを祈るばかりだ。

生活の中で消費される紙づくりこそ、蒲生和紙の伝統

小倉さんの紙は障子紙のほかにも、様々な用途に使われている。
小山田さんの菜種油のろ過紙を始め、焼酎のラベルや鹿児島神宮の初午祭の時に鳴らされるポンパチ、版画や水墨画の台紙、そして書道の半紙。変わったところでは打ち上げ花火の玉を包む紙も。また、蒲生小学校の卒業証書も小倉さんの手すき和紙。「アートや工芸品としての紙ではなく、日常の中で使われる、消費される紙を作っていきたい」これも正二さんから受け継いだ蒲生和紙の伝統だ。

「伝統の技術は文字で書き残しただけでは伝わらない。見よう見まねを何回も繰り返し体に覚えこませるませ、そして実際に作り続けないと残っていかないし、道具も伝わらないと思うんです」次の世代にまた、蒲生和紙の伝統を受け渡していくためにも手すきを続ける覚悟だ。

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